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 天秤が傾く時


 初めて、美味しいという価値観を越えた魂が彼だったのだ。
 彼が死に、生まれ変わり、また死に、時に殺し、彼だけを追い続けていくらになるのだろう。
 初めは偶然だった。あの美味しかった獲物にまた会った。その程度の認識。何度か邂逅するうちに、再会をふと思う心に気付き、いつしか意図して追うようになっていた。もう何人目だろう、彼でない彼に出会うのは。そもユーゼフはひととは違うことわりに生きる生物だから、時間の流れも相応に緩やかだ。ただびとなら狂うだろう悠久も、ひとが感じる一生の長さと、体感としては変わらないかもしれない。時計の針の、速さの違い。それだけに過ぎない。
 ユーゼフとて始まりがあれば終わりとてある。だからそんな生物であるとの自覚が過ぎ去ってゆく時間にも何度も繰り返す出逢いと死別にも、ただ少し寂寞を覚えるだけだった。ひとに混ざりひとに紛れその時間で生きるように遊んでみる、自分が垣間見た白昼夢のようなものだと。思っていた。
 離別は確かにユーゼフに傷を与えたが、肌を一撫でするようなものだった。だから気付かなかった。一筋の傷は、ユーゼフからすればあまりに短いサイクルで絶えることなく繰り返される。別れと別れと別れと。傷の上にまた一筋、一筋と傷ついて、修復の間もなく抉られやがて一撫でだった傷が深くなり常に血を溢し膿んでいっているなどと、うずく痛みを自覚するまで気付かなかった。その痛みは心の臓を握られればかくなるか、というものであったことに、初めてユーゼフは気付きうろたえた。つまり彼は、彼の魂は、彼との別れは知らずユーゼフの中に根を張り侵食し、いつしかその意思を越えて刻み込まれていたのだ。気付いてしまえば、またの別れはじくじくと痛み今なお血を流す傷口に容赦のない一閃を加えるものである。ユーゼフは初めて恐れた。

 ごめんB君。
 眠るBの銀糸をさらりさらりと手遊びながらユーゼフは懺悔した。
 引きずりこんでしまう、かもしれない。ひとであったから愛した。自分とは違う時間のいきものだからこそいとおしいと思った。精一杯短い時間を駆け抜けてゆく姿が眩しかった。だから死も別れも必然で、────また出会えるだろうことはかたくない。分かっている。理解している。だがどうしてだろう。痛くて痛くてたまらないのだ。ひとから引きずり出してしまったらきっと彼は変わるだろう。ユーゼフの、あいしたものではなくなるかもしれない。だが。ユーゼフはため息をついてそして呟いた。ごめん。謝罪がぽとりぽとりと降り積もる。ごめん、ごめんね。慟哭のように謝罪して。でも今度こそ、喪失に耐え切れないと嘆くこの傷が、きっと彼を引きずり落とすだろう。


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